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    ノスタルジックが大好きな平成ブロガーの散文

平成生まれの僕らはどこに「適応」すれば良いのだろう?


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適応障害」という言葉がある。

言葉っていうか、病名なのだけれど。

僕が今かかっているのが、まさにこの「病気」で、絶賛休職中なわけである。

 

ある日、出社をしようと自分の部屋の扉に手をかけた時、激しい腹痛に襲われた。

当然、急いで会社に連絡し、その日は休みを貰って、近場の内科に向かったのだけれど、そこでの検査の結果、どこにも異常は無い。

「精神的なものかもしれませんね」とその初老の医者は心療内科を紹介してくれて、言われるがままに向かった先の病院で「適応障害」の診断書をその場で貰った。

翌日。

出社し、上司にその診断書を見せながら休職の相談をしたら、返ってきた言葉は「現代病だな」という台詞だった。

 

はて?

 

それまでわりと激務だったから正直に言うと、若干休みがもらえて嬉しい気持ちもあったのだけれど。

心のどこかでこの「現代病」というワードが引っかかった。

そしてそれはすぐにすとんと納得できる経験と結びついた。

あ、これあれじゃん。

「ゆとり」って言われた時みたいだ。

 

 

別に「適応障害」が20代以下だけに起きる病気だとか、そういうことを言いたいわけじゃない。

でも、その上司が言った「現代病」というフレーズにはどこかしら「ゆとり」と似たような響きを感じたのだ。

 

よく飲み会の席で「昔はなあ」なんて話すおっさんが居るけれど。

まあ、往々にして「若い頃、どれだけ苦労したか。どれだけ働き詰めだったか」みたいなモンである。(そりゃたまには大変ためになるおっさんだって居るけれど)

その度に僕は「昭和と平成の壁」みたいなもんを感じるのだ。

それは1989年、まさに平成がはじまったその年に崩壊したベルリンの壁のように、思想、世相、カッコつけて言ってしまえば「世界観の壁」みたいな見えない壁がどでんとおっさんと僕らの間に横たわっている。

そこに物理的な壁が在るわけではないので、「はい! こっちは昭和的な感じ! こっちは平成的な感じ!」みたいに明確な線引がされてるわけじゃない。

されてるわけじゃないんだけれど、まるで砂浜みたいに、ところによっては「昭和の海」が湿っているところは湿っているし、乾ききっているところは乾いている。

 

 

「みんなで一緒に苦労して、働いて、社会のために尽くそう!」って言うと言い過ぎだし、昭和生まれの人たちが皆そうだと言うわけじゃないけれど。

例えば、上下関係の厳しい体育会系の部活。

例えば、根性論の営業がまかり通っている会社。

「個人」を殺して「全体」のために尽くす感じ。

「情」というなんだか訳の分からない罪悪感に締めつけられている感じ。

「昭和」っていう時代を否定したい訳じゃない。

そこで生きていた人たちを批難したい訳じゃない。

ただ、それは確実に僕らの生まれる前から存在している……つまりは「昭和から続いているあの感じ」としか言いようがない。

 

今でこそ、ノマドとかミニマリストとか、新しい生き方が提唱されているけれど。

場所によっては――それはとくに田舎だと顕著なのかもしれないけれどーー昭和の海から生き残って這って出てきたその「感じ」がまだ「平成」という砂浜を湿らせている気がする。

そして僕らはそれに足を取られて、昭和の海に引きずりこまれる。

そこではシーラカンスの如きおっさん達にこう言われるのだ。

「なんでお前エラ呼吸してないの? 群れないの? 当然でしょ?」

「なんでお前24時間泳ぎ続けないの? 死ぬよ? 当然でしょ?」

その時、僕はかつて居た地上に想いを馳せる。

「あいつは肺呼吸を手に入れて、その4本足でどこでも行けて良いなあ」

「僕だって、元は平成という地上に居たはずなんだけどなあ」

 

 

それまでは「昭和の海」からの恵みで気楽にBBQなんてしていて、その後のことなんてろくに考えず、他の仲間が自分の足で内陸へ開拓に向かうのを眺めながら「いつまでBBQ出来るかなあ」なんて阿呆な事を考えていた。

そして未知なる大地を開拓していく仲間の背を見送っていたら、足を取られて海へドボン。

「今度は君が恵みになる番なのだよ」なんて言われて、でも肺呼吸なもんだから気づいたらゴボゴボと溺れて。

ひいひい言いながら、海面に一旦顔を出して、砂浜へ這って行って顔をあげるとそこには白衣を着た海鳥みたいな医者がいて、深刻そうな顔でこう告げる。

「君は海にも陸にも適応出来ませんでした」

僕は濡れた身体で、じっとその境目で立ちすくむ。

 

 

 

海(昭和のあの感じ)という僕らが生まれる遥か前からあった世界観で生きていくのか。

陸(これから開拓していく場所)という僕らが作っていく世界観で生きていくのか。

それともその間の平成という砂浜で立ち往生してるしかないのか。

 

遙か前方の大地では自分達なりの自給自足の方法を見つけた幾つかのコミュティが出来上がっている。その数は次第に増えていきそうだ。

そしてそのコミュニティから流れてくる何かが海に影響を与えている箇所もある。

 

中には陸から海へとあえて戻っていく奴だって居る。

そいつらは肺呼吸のまま、独自の生態を維持したままかつての海へと戻り、そのルールの中で新しい生き方をしている。

 

そのどれもが、「適応」している。

 

 

 

海鳥が去った後の砂浜で考える。

このまま海に戻って、エラ呼吸にでもなって「無理やり適応する」か。

このまま陸に踏み出して、自力で開拓して「適応出来る場所を探す」か。

 

……いやいやいや。

たぶん、ベルリンの壁が壊された時点で、生まれてきたその時点で、そんなもん決まっていたのだ。

至極当たり前の話。

海に向かおうが、陸に向かおうが。

まずは「砂浜」に適応しなきゃいけなかった。

それは「選ぶ」ということに「適応」する。という言い方に出来るかもしれない。

一体自分が今、どれだけあやふやな場所に立っているのか。

足をとられる前に。

誰かを羨む前に。

 

まずはそこから始めようと思った。

 

 

散文でした。