65日かけて「退職届」を書いた話。あるいは年の離れた友人の話。
気づけば、65日である。
なんのこっちゃと言うと、ものの見事にブログを放置して65日なのである。
65日と言うと軽く2ヶ月弱。
気づけば冬も終わって、桜が咲いて、なんならジワジワと夏の足音なんて聞こえてきたりする。
そんな季節の変化に押されたわけではないのだけれど、生まれて初めて「退職届」なんてものを出してきた。
この2ヶ月間。こんなA4三つ折の紙切れを出すために延々と悩んでいたのだ。
そもそも休職してどえりゃー色んな人に迷惑をかけて……なんて思いつつも、アホ程なハードワークのせいで体調を崩した、という事実もあったり。
じゃあ、「退職届」を出して清々しいのか……と言われれば、後ろ髪引かれるところもあったり。
ハードな職場であったことは確かなのだけれど、「ブラック」だけとは言い切れない何かがあったんだろうなあ、と思う。
別に社畜精神に毒されてるわけではなくて(少なくとも僕はそう思っている)、それ以上に周りの人に恵まれたのが大きいのだと思う。
ちょうどこのブログを始めたのが体調を崩し、休職に入った頃。
その頃は早く現場に復帰しなければ、という思いばかりが募って、毎日胃がキリキリするわ眠れないわで何のために休職しているのか分からないような状況だった。
同僚や部下からは見舞いにかこつけた仕事の相談の連絡は来るし、僕が休んでいることを知らない取引先からの連絡も来る。
そんな、なんやかんやがやっと落ち着いた頃、Aさんから連絡が来た。
Aさんは同じ職場で、僕より一回りも二回りも年上。
殆ど僕の親と同年代くらいの人。
こう言っちゃなんだけど僕が知っている「大人」の中で郡を抜いてはっちゃけてる人だった。
こんなご時世だけど酒と煙草を愛し、隙あらば飲みに行こうとする。
かと思えば仕事に関しては天才的で、まるで少年みたいな眼で楽しそうに仕事をする。
ただ、あまりにも自由過ぎて僕を含め周りは何度振り回されたか分からない。
でもなんでか知らないけど最終的には笑えて、自分達も楽しんでしまう。
そんな不思議なはっちゃけてる人だった。
そんなAさんから飲みに行こう、と誘われた。
本気で迷った。
僕が休むことによってツケが回ってきていないはずがないから。
そんなこっちの心持を見透かしたのか、こんな事を言ってきた。
「友達と飲むんだから、悩むことはないだろ」
殆ど息子みたいな年齢の人間に向かって、あっけらかんと言い放った。
まったくズルい少年ジジイである。
それからと言うもの、次第に他の会社の人達からの連絡が薄くなっていく中で、この一回りも二回りも年の離れた「友達」は事あるごとに僕を飲みに連れ出した。
というか、僕を口実にしてキャバクラやらスナックやらに繰り出していた。
それはまるでAさんと仕事をしてた時の振り回されている感覚に似ていたけれど、やっぱり不思議と嫌な感じはしなかった。
ただ、恐らく職場から僕の存在が薄くなっていくように、僕自身の中でも「もうあの職には戻れないだろうな」という感覚が日に日に増して行くのも感じていた。
仕事自体は嫌いじゃない。
なんならまたAさんとだって仕事がしたい。
でも、そもそも果たして本当にやりたいことだったんだろうか?
Aさんはあっけらかんと「これが俺のやりたい仕事」と言ってのける。
だからどんだけハードワークだろうと、むしろ楽しんでやれる。
それどころか「死ぬなら、定年退職なんかしないで仕事しながらが良いなあ」なんて笑って言ってのける。
じゃあ、僕は?
65日。
おおよそ2ヶ月。
最初の一ヶ月は本気で今の仕事について考えてみた。
それこそ生まれて初めてのちゃんとした面接から、右も左も分からない新入社員だった頃。
少し自信がついてきた頃。
初めて部下を持った頃。
そして、これから。
良いのか悪いのか分からないけど、殆ど生活の全てを仕事に捧げてきた。
正直、上のポジションだって具体的に見えていた。
でもそれが祟って体調を崩し、休職に陥った。
果たしてそれで幸せなのだろうか?
青臭いけれど、これが僕の本当にやりたかったことなのだろうか?
Aさんだったら笑って「本望だ」なんて言うだろう。
この仕事が心の底から好きだから。
じゃあ僕は?
2ヶ月目。
Aさんから「花見をしよう」と連絡が来た。
ここのところ誘いを断ってばかりだったから「桜が散る前にな」なんて屈託なく笑いながら。
会社の中でも特に僕とAさんと仲が良かった「友達」が数人集まって、賑やかな会だった。
その席の中で、Aさんが僕が休職になって以来、初めて仕事の話をふってきた。
「言っとくこと、あるんだろ?」
咎める風でもなく、いつもの少年みたいな目だった。
大体こういう目をしている時は、この後どうなるか分かっている時だった。
だから僕は、情けない話だけど安心して「はい。辞めます」と皆の前で言えた。
二回りも年の離れた友達は「そうかそうか」と何故か嬉しそうに僕のお猪口に日本酒を注いでくれた。
……そんなわけで。
気づけば65日である。
生まれて初めて「退職届」を書いたわけだから、生まれて初めての「転職活動」なわけである。
次の仕事が決まってから退職した方が賢いのだけれど、なんだかあの日本酒を飲んだ時にケジメはつけなければ、と思ってしまったわけである。
散々っぱら悩んだくせに、正直未練だって未だにタラタラ。
でも、だからこそのケジメでもある。
馬鹿なのは重々承知だけれど……というか早く決めなければ晴れて無職なのだけれど。
年の離れた友人に背中を押して貰ったから、急ぎつつも慎重に。
願わくばその友人に笑顔で報告できるように。
若干冷や汗をかきながら、絶賛転職活動中。
散文でした。
あと30分でカフェ難民。
カフェって良いですよね。
家に居たらもう根っこでも生えてんじゃねえかってくらい動かない僕は、インスタントコーヒーすら淹れるのが億劫なのですが、カフェだと頼んだら勝手に出てくるし。
なにより、あの家よりは落ち着かないんだけど、その分作業や読書に集中出来る感じと言うか。
でもやっぱり学校や会社とかとは違う一人だけど一人じゃないほっとする感じ。
お洒落なジャズが流れる店内で、優雅にコーヒーの香りを楽しみながら、カタカタとキーボードを打つ時間。
ああ、憧れる。
因みに僕の住む街はそらもう石を投げればカフェに当たるくらいカフェがありまして。
古い街だからか、チェーン店よりも個人経営のカフェが多い。
じいさんばあさんがやっている昭和から続いているような渋いカフェもあれば、若い人がやっている"今どき"のカフェもあったりで結構バラエティに富んでいます。
よっしゃ僕も行きつけのカフェみつけて、お洒落な奴らの仲間入りや!
なんて具合に自分に合うカフェを探したのですが、まあなんか上手くいかない。
この街に越してきたのは3年前。
田舎者の僕は喜び勇んで、個人経営のカフェやらバーやらに時間を見つけては突撃したのだけれど、どうにもどこも落ち着かない。
やっぱりというかなんというか。
そういうドラマにも出てきそうなカフェっていうのは得てして先住民とも言うべき常連さん達が既に居て、一種独特の空気になっていたり。
例えば、老舗と言われているカフェ。
まず入口に「ケータイとパソコン禁止」と張り紙がしてある。
ログハウスのような店内には三々五々お爺さんか礼儀正しそうな服を着た大学生が座っていて、皆黙ってコーヒーを啜っている。
そんなコーヒー至上主義者たちの集まるカフェに、「やはりコーヒーはBOSSですな」なんてのたまう僕が入ったら恐らく焙煎されるだろう。
例えば、最近出来たばかりの若い女の店長さんがやっているカフェ。
白を基調とした店内には可愛らしいソファとかがあって、これまた可愛らしい看板娘のポメラニアンが居る。
電源もWifiもあってブログの記事を書くにはうってつけだけれど、夕方を過ぎるとそこは女子大生、女子高生の巣窟となる。
想像してほしい。
退屈な授業を終えて、やっときた楽しい放課後。
「あの新しいカフェ行こうよ! ポメラニアンが居るとこ!」
「行こう行こう!」
なんて、女子大生達がきゃっきゃしながら絵本に出てきそうなメルヘンな木のドアを開けると、そこにはポメラニアンに吠えられている野良犬みたいなアラサーの男(僕)が居るのである。
ちょっとした悲劇だ。
そりゃ中には人当たりの良いおばあさんがやっている、入りやすいカフェなんかもあったのだけれど、そこは店長さんの人柄もあるのか、まあ賑やかなマダムたちの巣窟である。
なんとか端の方の席を確保してぽちぽちキーボードを打っていると、否応が無くマダム達の会話が耳に入ってくる。
「どこどこの家の旦那さんが不倫したらしいわよ」
「やーねー。だからいつも奥さんの怒鳴り声が聞こえてくるのかしら」
「子供もいつも泣いててかわいそうねえ」
それたぶん僕の近所の家だー!!
知りたくなかったー!!
気になって、ブログ書いてる場合じゃねー!!
ってな具合で、色んな気になるカフェは数あれど。
どうにもしっくりするところが見つけられない。
とはいえ、家で一人でぽちぽちキーボードを打つのも寂しい。ってか集中できない。主にスプラトゥーンのせいで。
とはいえ、チェーン店に入るのもなんか気が引ける。せっかくこんな街に住んでるのに負けた気がする。
おお神よ。カフェでお洒落に作業したい我を救いたまえ。
そんなわけで安住の地を見つけられず、カフェ難民になりかけていたのですが、ついに自分とぴったり合う場所を発見。
それが「地元にしか展開していない小規模チェーン店」
いや、結局チェーン店やん、と思われるかもしれませんが、これが普通のチェーン店とはちょっと違う。
確かに内装は普通のチェーン店に毛が生えた程度ですが、他のチェーン店ほど、画一的な感じでもない。
かと言って、個人経営のカフェ程、近しい空気感、ないし独特の雰囲気はない。でもチェーン店ほど離れてない。
この絶妙な距離感が素晴らしい。
ここだ!
チェーン店がゲシュタルト崩壊してきた!
やっと安住の地を見つけ、それからというもの週5レベルで通う毎日。
いや本当第2の家と言っても過言ではないほど通い詰めてる。
少し真面目な話をすると、休職中の僕にとってはこういう"外で作業できる環境"というものが結構重要だったりする。
リハビリというと大げさかもしれないけれど、他の人も居る中で黙々と作業が出来る環境。
静けさで言えば(たまに聞こえてくる近所の喧嘩の声を除けば)そりゃ家の方が静かだけれど、ある程度の雑音、というか"丁度良い緩い緊張感"の中で作業するというのは、凄く心地が良いし集中出来る。
ブログを書くのに飽きたら、読書をしたり、カフェオレを飲みながら自分の人生について思いを馳せることも出来る。
ああ、そうか。僕にはこんな時間と空間が必要だったんだ。
野良犬みたいな僕でもどや顔で"なんか出来る人"ぽく見える約束の地だ。
ポメラニアンにも吠えられないし。
なんて、まるでホットカフェオレの様な温かな優しい気持ちで、生まれて初めて神様に感謝しかかっていたのですが。
先日、このカフェの閉店が決まりました。
神様情け容赦なしかよ。
こちとらまたカフェ難民だよ。
因みに、閉店の日は1月31日。
つまり今日。
せめて最後にお洒落カフェ野郎になってやろうと思い、ぽちぽちこの記事をそのカフェで書いてます。
カフェが多い街、ということはその分競争率も激しいのか、ここ以外にも何店か閉店しているのを見かけたり。
前にたまたま通りかかった、閉店間際の個人経営のカフェはなんか常連さんが店員さんに花束渡してて凄いアットホームだったり。でも、あの人たちも次の日からはカフェ難民になるのかな、と思ったり。
ここまで書いて、もうこの店の"店じまい"まであと30分ほど。
当然、小規模でもチェーン店だから花束渡したりとか、ドラマチックな感じは全然ないけれど。
ちょっと前に、飲み終わったカップをさげに来た店員さんが「今までありがとうございました」と笑ってくれました。
他のお客さんにも一人ずつ周っているみたい。
結局、常連にはなれなかったし、明日からまたカフェ難民だけど。
もう少ししたら「ごちそうさまでした」と言って出ようかと思います。
散文でした。
夢は呪いなのか? 希望なのか? 元バンドマンが自分の夢を振り返りながら考えた。
いきなりですけど、夢ってありましたか?
子供の頃、お花屋さんになりたいとかサッカー選手になりたいとか。
多分成長するにつれて、少しずつ変わっていって。
気づいたら公務員になりたいとか、定時退社のホワイト企業に勤めたいとかに変わったりした人も多いんじゃないかと思います。
その一方で、堅実に子供のころからの夢を叶えるべく、まだアルバイトをしながら追っかけている人も居たり。
僕はと言うと、後者でした。
……そう「でした」。過去形です。
前の記事で何度か触れましたが、僕は元バンドマンで、音楽で飯が食えるようになりたいと本気で考えていました。
その結果は……言わなくても分かる通り、なれませんでした。
もしなっていれば、こんな記事は書かなかったでしょう。
じゃあ、夢って一体なんだったのだろうか。
「バンド」という夢を追っていた自分を振り返りながら、考えてみました。
夢が「呪い」に変わった瞬間
中学時代に始めたギター。
そのまま高校、大学と続けて、卒業が迫ってきても就職活動をせずにアルバイトで生計をたてながらバンド活動を続けました。
周りはそれなりに順調に内定を掴み、新しい生活を始めていく中、どこか自分だけが取り残されている感じ。
日々の練習やライブ代にバイトの給料は消え、以前よりも経済的に余裕が出来た友達の旅行や"お金のかかる"食事を断る日々。
そして、そこまで自分の生活をかけても一向に芽が出ないバンド。
正直、惨めでした。
バンドをやっているとよく言われる言葉があります。
「才能があっていいね」「モテるでしょ」「俺も私もそれくらい打ち込めるものがあればなあ」
学生時代が終わり、周りが社会人になると、これはこう変わります。
「人生楽しそうでいいね」「俺なんて趣味もないよ」「真似できないなあ」
「いつまで続けるの?」
いつまで?
いつまで、なんだろう。
一体僕はこの惨めな生活をいつまで続けるのだろう?
14歳でバンドを始めて、10年弱。
音楽が全てだった。
たとえ売れなくたって、色んな出会いとか、一生忘れられないような素敵な出来事とか、たくさんあった。
でも、じゃあ、こんな生活を一生続けていくのか?
同年代がどんどん仕事で出世していって、経済的にも恵まれていって、結婚だってし始めている中。
それを横目に狭いアパートで「大人になれない」なんて謎の罪悪感に苛まれて、がらがらのライブハウスでお金を払ってまでライブして。
一体、僕はどこに行くのだろう?
14歳の頃、部活で人間関係が上手くいってなかった自分に居場所をくれた音楽。
17歳の頃、一生付き合えるような友人に出会わせてくれた音楽。
22歳の頃、周りから"外れる"ことになっても胸を張って居られる道筋だった音楽。
そんな「生きる希望」だった音楽が、その頃には何か「息苦しいもの」になっていました。
それでもそれ以外の生き方を知らない。
音楽以外の居場所を知らない。
もう惰性なのか意地なのか分からないような気持ちを抱えたまま、それでもバンドを続けていました。
そんなある日。
愚直に活動を続けていたおかげか、それまで出ていたところよりもランクが上の大きなライブハウスから声がかかりました。
ただ一点、個人的な問題が起こっていました。
祖父が倒れて入院したのです。
家族や親戚からは「帰ってきて」と連絡が来る中、このチャンスをものにしたいと、連日メンバーと練習に明け暮れる日々。
メンバー全員がなんとなく分かっていたのだと思います。
「これで次に繋がらなかったら、終わりだな」って。
バイトもギリギリまで減らして、生活もギリギリまで切り詰めて、練習に打ち込む日々。
地元に帰る交通費ですら、惜しむ日々。
本当にこれが最後のチャンスなんだ、一日だって無駄にできない。
祖父のことが気になりながらも、僕はこの時、夢と家族を天秤にかけて、夢を選んだんです。
結果ですか?
祖父はライブ当日の朝に亡くなりました。
どんだけ安っぽいドラマなんだよ、俺の人生と思いました。
ライブは自分が原因で散々な結果で、次に繋がることはありませんでした。
それでも許してくれたメンバーには感謝しかありません。
そんな良い奴らと出会えたのは音楽のおかけでしょう。
ただ、祖父に最後に会えなかったのも、また音楽のせいでした。
……いや、音楽のせいなんかじゃなく、自分の浅はかさのせいだと分かっては居たんです。
それでも、もう音楽を憎まずには居られなかった。
そうじゃないと自分を保って居られなかった。
10年以上追いかけていた夢が破れて、大好きだったじいちゃんの最期にも立ち会えなかった。
"夢"が"呪い"に変わった瞬間でした。
「呪い」を無くした日々
あの一件の後、バンドは解散しました。
それまで音楽漬けだった日々から、それを取り除いてしまうと日々は見事に無味無臭でした。
地元に帰り、せめてもの罪滅ぼしに祖父の残した畑を耕したりして、それも落ち着くとまた関東に戻ってきて就職しました。
細かい職種はふせますが、一種のマネージャー業みたいな、編集業みたいな、そんな仕事でした。
面接の時には「夢を忘れろ」なんてカッコつけたこと言われたけれど、もうその頃には音楽を聴くことも見ることも無くなっていたので「はい」と答えました。
生まれて初めて働いた「会社」は、まあ第二新卒も過ぎた僕が就職出来たところなので、給料も少ないし、残業休日出勤、果ては社泊なんて当たり前のブラックもブラックだったのですが、幸いにも人に恵まれてなんやかんや楽しくは働いていました。
小さいけれど、自分が手伝った人の"夢"が叶っていくのも、見ていて嬉しかったです。
ただ、それで満たされているのか? と問われれば、僕は迷わず首を横に振るでしょう。
激務かつ少ない給料ながらも「会社員」という肩書を周回遅れで手に入れて、やっと胸を張って友人たちとの飲み会にも出られるようになりました。
音楽=プライベートだったので、それが無くなった今、そのリソースも割いて仕事に取り組みました。
その結果、小さい会社だとは言え、役職だって手に入れました。
あの頃、必死に時間を作って没頭していた"音楽"という"呪い"が無くなった今、もう仕事しかやることがなかったのです。
音楽以外の唯一の趣味だった読書だって一切しなくなったし、そもそも「好きなことをやる」という、それ自体がもう僕にとっては"呪い"でした。
何か好きなことを見つけると「才能の有る無しに関わらず、夢中で取り組んでしまう」という性質が嫌と言うほど分かっていたからです。
それはある意味、強みと言っていいかもしれません。
10数年間、夢を追い続けたことを褒める人だっていました。
でも、それでは飯が食えないんです。
夢を追って、それで成功して、生活に困らないなんて人が一体何人居るんでしょうか?
それは頭の良さなのか、単純な努力の結果なのか、運なのか。
少なくとも、僕にはそれのいずれかが……あるいは全てが足りていませんでした。
そして、それでも”好きなこと"を捨てきれないことこそが、"呪い"だったのです。
だから僕は一切の趣味を封印して、愚直に仕事をしました。
それで満たされないとしても、そうまでしないと自分は"普通の生活"を維持できないと思っていたからです。
「音楽をやりたい」とむくむくと起き上がってくる"呪い"を押し殺して押し殺して、人の夢の手伝いをする。
嬉しそうな顔を見るたびに、蓄積されていく小さな嫉妬からは目を逸らしながら。
その結果どうなったか。
ある日、会社に行けなくなりました。
激しい吐き気と腹痛。
「適応障害」という心理的な病気になってしまったのです。
大バカヤロウです。
「好きなことをして下さい」と言われて
会社に休職届を出して、何も予定がない日々が始まりました。
医者には「ゆっくり休んで、好きなことをして下さい」なんて言われました。
はて?
「”好きなこと”を我慢して、"呪い"にかからないように、ここ最近真面目に生きてきたのに、どうして?」
休んだばかりの頃、割と本気でこんなことを考えていました。
馬鹿というか、やっぱり結構ヤバかったんだなと思います。
好きなことを徹底的に我慢していた結果、僕は余暇の使い方が分からなくなっていました。
適応障害のほかに、ワーカホリックだとも言われました。
必死に自分が好きだったことを思い出して、でもやっぱりまだ「音楽」には触れられなくて、まずは読書とか、映画を見たり、そういうことから始めました。
そうすると、ある日、自然と一本の映画に手が伸びました。
ソラニン。
18歳の頃、上京する時にギターケースに一緒に放り込んたマンガ。
14歳の頃、僕に居場所をくれたロキノン系のバンドの中でも特に好きだったアジカン。
今見ると安っぽいドラマだな、と思いました。
思いながら涙がボロボロと止まりませんでした。
すぐにギターを引っ張り出してきて、1万曲以上入っているのが自慢だったipod classicを引っ張り出してきて。
なんて音楽って楽しいんだろなって。こんなんで救われるなんて、どっちが安っぽいドラマだよ、なんてまたボロボロ泣いて。
大バカヤロウです。
20代後半にもなって、くそダサいです。
これで音楽が"希望"になったのか? と言われれば、なってないです。
ただ一つだけ言えることは、この時、夢は"呪い”でもなくなったんです。
夢は呪いなのか? 希望なのか?
「夢ってなんですか?」
この問いは、たぶんこう言い換えられるのだと思います。
「好きなことはなんですか?」
花が好きだから、花屋になる。
サッカーが好きだから、サッカー選手になる。
安定した生活が好きだから、公務員になる。
音楽が好きだから、バンドでプロになる。
夢を追う原風景ってなにかしらの「好きだから」。
それを一生続けるために、仕事にするという"希望"を持って、努力する。
「好きなこと」が「義務」になる。
その「義務」に「好き」が押しつぶされた時……たぶん、夢は「呪い」になるんじゃないでしょうか。
ただ、その時「義務」にならずに「好きだから」のまま続けられる人たちが居て、その人たちにとっては「希望」のままなんでしょう。
つまり……夢は呪いを内包した希望なのだと思います。
一見輝いて見えるけれど、押しつぶれたり、裂けたりすると、その中からは呪いが溢れだす。
頭の良さや努力や運が無かったから?
その人が弱いから?
いいや、違う。
好きすぎて、でも不器用で。
子供が玩具を壊すように、握りつぶして怪我をしてしまっただけじゃないでしょうか。
そして、それをその玩具のせいにしてしまっただけなのではないでしょうか?
本当は大好きなのに。
僕はアホ程遠回りして、やっと「好きなこと」に返ってきました。
久々に会った音楽は本当に、もう、ちょー楽しい。
じゃあ、また改めて夢を目指すのか? 音楽のプロを目指すのか?
それはNOです。
当たり前ですけど、だからと言って、もう音楽を手放す気も更々ないです。
敢えて、夢だと言うのなら、今は音楽を続けられる環境にすることが夢かもしれません。
「好きなこと」で自分の人生どうにかしようとしていたからこそ、夢は「呪い」になったのだと思います。
じゃあ、「好きなこと」を守る生き方ならば……それは「趣味」と言うのかもしれませんが。
でも、「音楽で生活をたてる」という枠組みさえ外してしまえば、今やいくらでもネットで発表出来る時代です。
クリエイティブ系だけに限った方法かもしれないけれど、なんだかそっちのほうが健全な気もします。
好きなことを”夢”にして"呪い"にしてしまうよりも。
そして音楽を"夢"から"好きなこと"に引き釣り降ろした今の方が、希望が持てました。
やっぱり音楽って楽しい。
生活を犠牲にするのではなく、どうやって音楽と共に生きていくか。
その生き方を模索すること。
それが今の僕の"夢"です。
あなたの夢は今、義務になっていませんか?
散文でした。
ばあさまから教わった雪道を歩く7つの知恵
誰だ、うちの窓に雪球投げたやつ(挨拶)
東京に大雪警報が出ていますね。
大学生の頃、上京してきて初めて頼りにされたのが雪道の歩き方でした(福島出身)
子供の頃から冬になると地吹雪のなか登校していたので、ばあさまに教わった雪の中の歩き方をまとめてみました。
通勤、通学の際にふと思い出して頂ければ幸いです。
それではどぞー。
その1 歩幅は狭く歩け
普段あんまり気にして歩いていないと、意外と「足のあそび」がない(余裕がない)幅で歩いていたりするんですね。
これが滑った時にわりと致命的です。
歩幅が狭いと意外と少し滑ってから踏ん張りが効いて、途中で止められたりします。
その2 かかとからゆっくり足をおろせ
足を地面と平行におろせ、ってよく見るんですが、これ大人はわりと出来るんですけど、あまり重心を意識できない子供だと難しかったりします。
その場合は並行を意識しつつ、かかとからゆっくり足を”のせる”ようにしてみてください。
婆様は「力まずに足跡をしっかりつけるようにしろ」なんて言ってました。
その3 常に「すべる」と思っておくこと
受験生には辛いワードですが、常に意識している事が結構大事だったりします。
言い方を変えると「歩くことに集中する」ってことですね。
僕もそうなんですが、普段歩くことに慣れすぎてるせいで結構「歩くことを意識する」ってしていないんですね。
イヤホンをつけて歩かない。
歩きスマホをしない。
極力フードなどを被って両手を空けておく。
などなど。
「歩くこと」に集中出来る環境作りが大事です。
ちょっと根性論染みて聞こえるかもしれませんが、すべる時は一瞬です。
事前に心構えをしてるだけで、滑った時の対処が大分変わります。
その4 滑った時は「釘になった」つもりで
ばあさまに言われた子供の頃は「なんのこっちゃ」だったのですが、これ実際に滑るとよくわかります。
要は、滑る時って大抵片足だけが滑ることが多いんですね。
その時、滑っていないもう片方の足を、地面に大して垂直に重心をかけるとそこで踏ん張れて転ばずにすむ、ということ。
とは言え、歴戦の猛者であるばあさまみたくすんなり出来るわけではないんですが、これを意識して転ぶ時もなるべくその場に座り込むように意識すると被害を最小限に抑えられます。
どういう事かというと、前だったり後ろだったりに倒れこんでしまうと、身体を支えようと出した手も滑って捻挫したりするんですね。
転ぶ時は「釘になった」つもりでその場でお尻から転んだほうが安全だったりします。
その5 2日目こそ気をつけろ
2日目は溶けた雪が凍り、更に滑りやすくなります。
特に一番危ないのが、昼間晴れていて夕方~夜にかけて冷える時間帯。
意外と雪かきした後のアスファルトの方が危なかったりします。
この場合、その日に降った新雪の上を歩いたほうが滑らなかったりします。
どうしても凍った道を歩かなければならない時は、その1 その2を特に意識して歩いてみてください。
その6 早起きをしろ
「雪かき手伝え!」的な意味もあるのですが、要は時間に余裕を持って家を出ろ、ということ。
例え雪国出身の人であろうと、いつも以上に移動に時間がかかります。
おまけに時間がなくて焦るとその3が蔑ろになって、更に滑って転ぶ危険性が増します。
当たり前と言えば、当たり前のことですが、慣れない天気で余裕が無くなった時ほど危険です。
少しでも自分の身を守るために、時間に余裕をもって行動するようにしましょう。
その7 おしゃれはするな
中学、高校生の頃。このことでよくばあさまとバトルしていたのですが、要はちゃんと雪道対策をしろ、ということ。
普段履いてるスニーカー、特にVANSやコンバースなんかだと雪国を想定していないので靴裏の溝が浅かったりします。
これが、体感的に倍以上滑りやすくなります。
それと意外と見落としがちなのが革靴やブーツも物によっては靴底に溝がなかったりします。
仕事柄どうしても革靴じゃなければ駄目、という方もいるかと思いますが、そうでない方は思い切って長靴とかスノーシューズとかを履いた方が安全性はかなり増します。
それに、帰り道もいつも以上に時間がかかります。
そのことも見越して、寒さ対策も含めて、見た目は気にせず、しっかり対策することが大事です。
馬鹿に出来ない、7つの知恵
以上、僕が子供の頃からばあさまに教わってきた雪道の歩き方でした。
わりと若いうち……特に十代の頃なんかテンションが上って雪を軽く見がちですが、転ぶだけでも大きな怪我につながったりします。
ちなみにうちのばあさまは、どんだけ雪が積もっていようと畑から白菜を掘り起こしてくる猛者なので 、結構ためになるのかな、と思ったり。
通勤、通学のお役にたてば幸いです。
散文でした。
平成生まれの僕らはどこに「適応」すれば良いのだろう?
「適応障害」という言葉がある。
言葉っていうか、病名なのだけれど。
僕が今かかっているのが、まさにこの「病気」で、絶賛休職中なわけである。
ある日、出社をしようと自分の部屋の扉に手をかけた時、激しい腹痛に襲われた。
当然、急いで会社に連絡し、その日は休みを貰って、近場の内科に向かったのだけれど、そこでの検査の結果、どこにも異常は無い。
「精神的なものかもしれませんね」とその初老の医者は心療内科を紹介してくれて、言われるがままに向かった先の病院で「適応障害」の診断書をその場で貰った。
翌日。
出社し、上司にその診断書を見せながら休職の相談をしたら、返ってきた言葉は「現代病だな」という台詞だった。
はて?
それまでわりと激務だったから正直に言うと、若干休みがもらえて嬉しい気持ちもあったのだけれど。
心のどこかでこの「現代病」というワードが引っかかった。
そしてそれはすぐにすとんと納得できる経験と結びついた。
あ、これあれじゃん。
「ゆとり」って言われた時みたいだ。
別に「適応障害」が20代以下だけに起きる病気だとか、そういうことを言いたいわけじゃない。
でも、その上司が言った「現代病」というフレーズにはどこかしら「ゆとり」と似たような響きを感じたのだ。
よく飲み会の席で「昔はなあ」なんて話すおっさんが居るけれど。
まあ、往々にして「若い頃、どれだけ苦労したか。どれだけ働き詰めだったか」みたいなモンである。(そりゃたまには大変ためになるおっさんだって居るけれど)
その度に僕は「昭和と平成の壁」みたいなもんを感じるのだ。
それは1989年、まさに平成がはじまったその年に崩壊したベルリンの壁のように、思想、世相、カッコつけて言ってしまえば「世界観の壁」みたいな見えない壁がどでんとおっさんと僕らの間に横たわっている。
そこに物理的な壁が在るわけではないので、「はい! こっちは昭和的な感じ! こっちは平成的な感じ!」みたいに明確な線引がされてるわけじゃない。
されてるわけじゃないんだけれど、まるで砂浜みたいに、ところによっては「昭和の海」が湿っているところは湿っているし、乾ききっているところは乾いている。
「みんなで一緒に苦労して、働いて、社会のために尽くそう!」って言うと言い過ぎだし、昭和生まれの人たちが皆そうだと言うわけじゃないけれど。
例えば、上下関係の厳しい体育会系の部活。
例えば、根性論の営業がまかり通っている会社。
「個人」を殺して「全体」のために尽くす感じ。
「情」というなんだか訳の分からない罪悪感に締めつけられている感じ。
「昭和」っていう時代を否定したい訳じゃない。
そこで生きていた人たちを批難したい訳じゃない。
ただ、それは確実に僕らの生まれる前から存在している……つまりは「昭和から続いているあの感じ」としか言いようがない。
今でこそ、ノマドとかミニマリストとか、新しい生き方が提唱されているけれど。
場所によっては――それはとくに田舎だと顕著なのかもしれないけれどーー昭和の海から生き残って這って出てきたその「感じ」がまだ「平成」という砂浜を湿らせている気がする。
そして僕らはそれに足を取られて、昭和の海に引きずりこまれる。
そこではシーラカンスの如きおっさん達にこう言われるのだ。
「なんでお前エラ呼吸してないの? 群れないの? 当然でしょ?」
「なんでお前24時間泳ぎ続けないの? 死ぬよ? 当然でしょ?」
その時、僕はかつて居た地上に想いを馳せる。
「あいつは肺呼吸を手に入れて、その4本足でどこでも行けて良いなあ」
「僕だって、元は平成という地上に居たはずなんだけどなあ」
それまでは「昭和の海」からの恵みで気楽にBBQなんてしていて、その後のことなんてろくに考えず、他の仲間が自分の足で内陸へ開拓に向かうのを眺めながら「いつまでBBQ出来るかなあ」なんて阿呆な事を考えていた。
そして未知なる大地を開拓していく仲間の背を見送っていたら、足を取られて海へドボン。
「今度は君が恵みになる番なのだよ」なんて言われて、でも肺呼吸なもんだから気づいたらゴボゴボと溺れて。
ひいひい言いながら、海面に一旦顔を出して、砂浜へ這って行って顔をあげるとそこには白衣を着た海鳥みたいな医者がいて、深刻そうな顔でこう告げる。
「君は海にも陸にも適応出来ませんでした」
僕は濡れた身体で、じっとその境目で立ちすくむ。
海(昭和のあの感じ)という僕らが生まれる遥か前からあった世界観で生きていくのか。
陸(これから開拓していく場所)という僕らが作っていく世界観で生きていくのか。
それともその間の平成という砂浜で立ち往生してるしかないのか。
遙か前方の大地では自分達なりの自給自足の方法を見つけた幾つかのコミュティが出来上がっている。その数は次第に増えていきそうだ。
そしてそのコミュニティから流れてくる何かが海に影響を与えている箇所もある。
中には陸から海へとあえて戻っていく奴だって居る。
そいつらは肺呼吸のまま、独自の生態を維持したままかつての海へと戻り、そのルールの中で新しい生き方をしている。
そのどれもが、「適応」している。
海鳥が去った後の砂浜で考える。
このまま海に戻って、エラ呼吸にでもなって「無理やり適応する」か。
このまま陸に踏み出して、自力で開拓して「適応出来る場所を探す」か。
……いやいやいや。
たぶん、ベルリンの壁が壊された時点で、生まれてきたその時点で、そんなもん決まっていたのだ。
至極当たり前の話。
海に向かおうが、陸に向かおうが。
まずは「砂浜」に適応しなきゃいけなかった。
それは「選ぶ」ということに「適応」する。という言い方に出来るかもしれない。
一体自分が今、どれだけあやふやな場所に立っているのか。
足をとられる前に。
誰かを羨む前に。
まずはそこから始めようと思った。
散文でした。
【2018年 東京初詣】水と蕎麦の香り 深大寺へ
あけましておめでとうございます。(挨拶らしい挨拶)
年が明けてから既に一週間近く経ってしまいましたが、今更ながら初詣に行ってまいりました。
因みに初詣はいつまで大丈夫なのか? と心配になりばあちゃんに聞いたところ、その年に初めて行くのが初詣とのこと(地方によって違うみたいね)。
というわけで、蕎麦を食べつつ、東京都調布市の深大寺に初詣に行ってまいりました。
吉祥寺から深大寺へ
中央線吉祥寺駅、南口の6番乗り場から「深大寺行き」のバスに揺られ30分程。
やってきました深大寺。
ついた瞬間思ったのはここ東京? という感想。(良い意味で)
辺りは木々に囲まれ、水路が流れ、門前には水車のある蕎麦屋が並んでいる。
さながら、鎌倉のような古都や、軽井沢のような避暑地の雰囲気。
それもそのはず、ここ深大寺は東京では浅草寺に次ぐ古さだそうで。
バス停としては「深大寺」で降りるとちょうど目の前なのですが、その手前の「深大寺入り口」辺りからそれまでの住宅街とは一転、木々が増え、まるで人里離れた山間の雰囲気に。
夏目友人帳の『きみが呼ぶなまえ』辺りが似合いそう。(もっと人が居なければ)
バスを降りてすぐ目に入るこちらの地図を見ての通り、お寺だけじゃなく、都立神代植物公園を始め(ここも昔は深大寺の敷地だったそうで。どえりゃー広い)東京に居ながらまるで、地方の山間へ旅行に来たかのような気分が味わえました。
すっかりここだけでも満足なのですが、今回の目的は初詣。
門前に並んでいる蕎麦やお菓子に後ろ髪を引かれつつ、まずは本堂へ。
流石に三ヶ日も過ぎれば、そこそこ人もまばらで、待たずに無事初詣を済ますことが出来ました。
すぐ隣に元三大師堂なるものも在ったので、参道に戻る前にこちらにも寄り道。
因みにおみくじも引いたのですが(巫女さんが居たよ!)
……末小吉なる見慣れぬ文字が。
果たして良いのか悪いのか。頭を抱えていると丁寧にもすぐ近くにこんな看板が。
下から2番めかい!
因みに、神社では和歌、お寺では漢文で書かれているそうです。
深大寺そばとそばぱん
先ほど水車の写真も掲載しましたが、ここ深大寺は湧き水が有名。
すぐ近くにある「不動の滝」は東京の名湧水57選にも選ばれているそう。
僕の故郷の福島の会津や猪苗代なんかもそうですが、水が美味いところは蕎麦も美味い。
ここ深大寺周辺も「深大寺そば」として20数件もそば屋が軒を連ねております。
さーて、無事初詣も終え、どの店に入ろうかなあと物色していると良い匂いが……。
蕎麦じゃないやん。
いや、これどうやら「そばぱん」という代物らしく滅茶苦茶良い匂いに釣られて買ってしまいました。
あんこやキーマカレーなんてのもありましたが、野沢菜をちょいす。
長野とかで食べるおやきみたいなものかなあ、と思ったら想像以上にもっちもち。
パンや饅頭と言うよりは、肉まんとかあっちに近い感じ。
ただ、蕎麦の風味とそのもっちもちの食感ですっごいうまい!
お店に入ってゆっくりするほど時間がないけど、深大そばは食べてみたい……という方におすすめです。
値段も300円程でリーズナブル。ってかこれ近くのコンビニで売って下さい。
他にもそばサンドやそばバーガー(噛みそう)なるものも。
正直、そちらにもすっごい惹かれたのですが、ここはぐっと堪えて近場のそば屋へ。
亀島弁財天池横の青木屋さんで、天ざるそばを頂きました。
行儀が悪いのは百も承知なのですが、窓から中の様子を伺ったところ、しその天ぷらが目に入ってしまい余りにも美味そうだったので、ここに決定。
蕎麦は太めでコシがあり、蕎麦つゆは甘め。
天ぷらも海老、茄子、しその葉の三つがサクサクで美味い!
特に蕎麦つゆが個人的には、もっとしょっぱいのが地元では多かったので新鮮でした。
因みに他のメニューはこちら。
今度来た時には温かい蕎麦も食べてみたい。
ってか、深大寺ビールもかなり気になる……。
水、蕎麦、深大寺
というわけで、改めて東京調布市の深大寺へと初詣に行ってまいりました。
正直、去年は明治神宮に行ったから今年は寺だな……なんて具合で安直に決めたのですが、大正解でした。
時期が時期だったからかもしれませんが、よく見る簡易的な出店は一切なく、昔ながらの門前のお店だけというのも、雰囲気を壊してなくて素敵でした。
午後になってから家を出たので、余りゆっくりと境内を散策できなかったのが心残り。
どうやら他にも陶芸が体験出来るところがあったり、「ゲゲゲの女房」のロケ地だったり(そういや、目玉おやじの団子が売られてた)すぐ近くにある神代植物公園と合わせて一日かけて周れそうな感じでした。
初詣だけではなく、2月には節分豆まき大会があったり、3月には達磨市が開かれたり、それ以外にも普通に休日の散策にもおすすめです。
今度は夏にipodに夏目友人帳のOSTなんて入れて、もう一度訪れたいなあ、なんて思いました。
もし何かしらのご参考になれば幸いです。
散文でした。
多摩川を散歩しながら、ノスタルジックな気持ちで休職について楽観的に考えてみた。
僕の故郷には川がない。
いや、正確に言えば何処かしらにはあったのだろうけど、少なくとも生活圏内には川がなかった。
だから、よくドラマとかアニメで見る河川敷を歩くシーンなんかに少し憧れがあったのだ。
東京に越してきたのだから、いつかは歩いてみようと思っていたのだけれど、気づいたらもう5年近く経ってしまっていた。
そんなずぼらな僕がどうして今更多摩川なんかを歩いたかと言うと、まあ暇だったからである。
世は師走で、同い年くらいの奴らは仕事納めに奔走しているんじゃないかと思う。
当然一応社会人である僕だってそうなっているべきだったのだけれど、暇なのである。
まあ、理由は休職中だからなのだけれど。
どうやら、適応障害とかいうやーつになってしまったらしい。
ある日、会社に行けなくなってしまったのだ。
とは言っても、仕事から離れていれば罪悪感を感じるくらい元気なのだけれど。
真面目な人がなりやすいモノらしいけど、果たして自分がそれほど真面目なのだろうか、とも思う。こうして出来た暇で川なんか歩いちゃってるわけだし。
あ、不幸にも「適応障害」というワードでこんな雑記を読んでる人がいれば、一つだけためになることを。
傷病手当金というものを申請すれば、ある程度の生活費にはなるよ。
どうにもお役所仕事で給付までかかるそうだけど、自分で書類を出しに行ったら2週間程で貰えるぜ。
休養が大事らしいから、こんな時くらい甘えてしまえば良いと思う。
そんな訳で、ぽっかり空いた時間を手に入れてしまい、こうして長年の夢だった河川敷散歩を楽しんでみたりしているわけである。
しっかしまあ、自分を大切に、などど言われたのだけれど、それってどういうことでっしゃろ?
細かい職種は伏せるけれども、確かに人に合わせることが多い職業ではあった。
マネジメント業みたいなものである。
前回の記事で書いたけれど、僕は学生の頃バンドをやっていて、それこそ本気でプロなんて目指したりしていた。
結局それは明確な挫折もないままに、なんとなくで終わってしまい、就職して、それで今に至るわけである。
ソラニンなんて聞いたらなんだか泣けてくるような平成第一世代である。
就職する時、上司に「夢は忘れろ」なんてカッコつけた台詞を言われたりしたけれど、「うるせーはげ!」てな具合である。
そもそもバンド諦めてなけりゃ、就職なんかしてるかぼけ! ってな具合である。
じゃあ、果たしてバンドを続けていたらこんな休職するようなことにならなかったのだろうか?
それが自分を大切にする、ということになっていたのだろうか?
多分、NOだろうなあと思う。
今より酷い状況になっていただろうことは目に見えている。
もしあの頃の自分がこんなブログを読んだら、鼻で笑っていただろうな、と思う。
「俺達は違うぜ」なんてカッコつけた台詞を言ったりして。
ライブハウスで酔いつぶれている、いい歳になってるおっさんを眺めて居た時のように。
ただ、じゃあ今の状態がベストなのかと言ったら、それも多分違うんだろうなあ。
幸いにも軽度らしいから、一月か二月後には職場に復帰しているんだろうけど。
多分、今迄みたいにはいかないだろうな、と思う。
ブログの説明にも書いてあるけれど、基本僕はノスタルジーが大好きで、こうやって昔の夢だった川沿いなんて歩いたりして。
働いている間はほったらかしにしてしまっていたけれど、昔の自分を掘り起こしてしまったりして。
よ、久しぶり! みたいな感じで。
人は人に会うことで影響を受ける、みたいな事を本で読んだことがあるけれど、それはどうやら他人だけではなく、過去の自分も含まれているようだ。
平成第一世代みたいな奴らはもうみんな大人になったのだろうか?
少なくとも僕の周りの同級生たちは、わりかし昔のまんまで、変わったことと言えば、徹夜で呑んだりしなくなったくらいだ。
あとは、ぼちぼち結婚している奴らだって居る。
でもさあ、と思う。
こうやって、十代の頃に憧れてた川沿いを夕暮れに散歩なんてしていると、なんだか放課後に居るような気分だよ。
そこら辺のコンビニで寒いのにガリガリ君なんてかってさ。
そんで「やっぱさみい!」なんて言って、今度はカッコつけてブラックの缶コーヒーなんて買ったりするの。
適応障害とか仰々しい名前じゃなくってさ、ただ単に部活サボってるような、そんな。
そんな、心持で良いんじゃないかなと思ったり。
20代で同じようになんか診断書持って、罪悪感に駆られながら休職している人がいたら。
なんかそんな心持で行こうぜ。
そんな事を勝手に思ったり。
散文でした。